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過激なレプリカ

模造品づくりにフルスロットル

八乙女光が「ひかにゃん」になるまで(後)~偶像からの卒業~

光くんのお話は前回で終わり。
最後に、私が光くんのファンをしていて感じたことを書いて終わります。
いわゆる、ポエムです。
ポエマーのあるある~言いたい~ポエマーのあるある~あるある~言いたい~ポエマーあるある~基本ですますで書いてるけど~途中タメ口になる~♪

★現場派アイドルヲタクによる、本人像の陣取り合戦

夏頃、友人のあややさんからお声がけがあり、こみねさんと共同で書かれている「ジャニヲタ情熱大陸」という企画でインタビューをして頂きました。京本政樹さんの番宣ばりの唐突さですみません。

本文内で、このブログの「過激なレプリカ」というタイトルについてふれているのですが、この言葉は、ブログの最初のエントリにも書いた以下の考えがベースになっています。

アイドルとは、同じ素材を元に、違う加工や装飾品を施したオーダーメイドのレプリカ。
個人の担当像は、個人がお金と時間をかけて、情報や思い出という装飾品を買って飾り、主観や憶測という加工を施しているものであり、完成品は似て非なるものである。

ブログのタイトルの説明文として書いたものではありますが、わざわざ作った文章というよりは、私がアイドルを楽しむにあたって、常に根本に存在している考え。

この言葉を記録してから3年、自分の変化に気付きました。
当時は、正直揶揄だったのです。
肩身が狭かった光くん可愛い派として、私はこういう光くん像なんだもん!タレント像って人それぞれなんだから!一人ひとりが思ってる光くんが皆の思ってる光くんと、「一緒で正義でほんもの」なんかじゃないからね!?という想いを込めてつけたタイトルでした。

その頃のSNSは何となくイメージの陣取り合戦みたいなところがあって。
何故ならコンサートや舞台がJUMPのメインワークだったから、皆が「自分の目で見た担当」しか持ってなくて、「あのアイドルはこういう人だ」「あのタレントはきっとこう思ってる」っていう勝手なイメージ像の押し付け合いが発生しているように感じていました。

たとえば、注意係になる光くんは、しばしば「嫌われ役を買って出ていてカッコイイ」と言われることがありましたが、そう決め付けないでほしいな、と反抗していました。

光くんは、愛情表現が下手くそ*1なので、嫌われてもいいと思ってやっているわけじゃないかもしれない。注意することで皆が良くなって、自分のグループ愛が皆に伝わって、皆に愛されたいと思っているかもしれない。だけど、やることやること裏目に出てしまい、結果的に嫌われ役になってしまっているだけかもしれない。
なのに、勝手に美談として解釈されることが苦痛だったのです。

と、例に挙げると「そんなん誰にも分からんがな!!どっちゃでもえぇわ!!」と顔を赤らめながら怒鳴りたくなるくらい、心底しょーーーーーーーーーーもない話なのですが、私が、この「八乙女光がひかにゃんになるまで」の「(はじめに)」に載せた手紙を書いた頃は、それくらい自分の光くん像も誰かの光くん像も全部別人で全然違う人に思えていました。

ジャニヲタの7不思議として数えられる「同担拒否」や「古参マウンティング」も、こういう陣取り合戦がこじれた末のものだと思います。同じ人を好きなのに同じ人を好きじゃないというパラドックスが発生してしまう恐怖。

★「売れる」、それは、みんなのものになるということ

だけど最近はTwitterを見ていても、「光くんがこう思ってるって勝手に決め付けないで!」とか「こんなの光くんじゃない!」と思うことは、ほとんどなくなりました。

「光くんはこんな人だ」
そんなブログやついーとを見ても、「それな!」としか思わなくなりました。

私があんなにこだわっていた「光くんは可愛いの!」という主張。
「ひかにゃん」っていう名前がまかりとおっているように、光くんを可愛いという視点は当たり前のものになりました。
それと同時に、わいは可愛いしか言わんぞ!かっこいいなんて思っとらんぞ!と頑なに突っぱねていた私も、光くんかっこいい、って素直に思うようになりました。
そうやってみんなバラバラに持っていた光くん像が今は差がなくなっていって、世界がひとつになったような感覚があります。

大きな要因としては、メディア仕事が増えて、テレビやラジオで同じものを平等に供給されるようになったから、「私が見ている光くん像はこうだ!」と主張しなくても済むようになってきたんだと思います。*2

今、JUMPは「国民的スター」への道を歩んでいます。
その背景と重ねて考えると、国民的スターになるということは「みんなのものになる」ということなんだなと改めて感じました。

「みんなもの」と表現は、特定の誰かと恋愛しない、という意味として使われることが多いですが、そうではなく、「イメージの固定」。
「誰から見ても同じ人になる」もまた、「みんなのものになる」という意味ではないでしょうか。

★オーダーメイド時代の終焉

冠番組を手に入れ、バラエティでグループを売るという大きな課題に挑んでいるJUMP。
9人の個性をお茶の間に浸透させるため、「トークでの役割」「個人のキャラクター」を明確にしていきたいと言っています。

これはイメージ像共通化の強制ともいえます。

現場のお仕事では、2~3時間のチケットを自分のお金で買い、好きなだけ自分の目で見て、自分の光くん像を好きなように作り上げてきました。

八乙女光」という神像を公式で手に入れた後は、どうカスタマイズして偶像を作り上げようが個人の自由だったのです。

こんなネックレスをつけようとか、ここはもうちょっと削ってみようとか、そうやって皆おのおの、自分の好きなレプリカを作っていました。情報や思い出という装飾品を買って飾って。主観や憶測という加工を時間をかけて施して。

だけど今は、公式が「八乙女光はこういうものです」と言って、質のいい商品を大量生産で配布してくれています。
もうオーダーメイドを創作する職人は不要なのです。
同名の別商品が氾濫し、市場が混乱することはありません。

自分だけの光くんが好きでした。当たり前です。自分の好きなように都合良く作ってきたものですから。
だけど、非公式のレプリカを愛で続けることは、不安で仕方なかった。
自分の手で作ったものにしか過ぎないのに、「このレプリカは本物なんじゃないか?」と勘違いしてしまうことが怖かった。
非公式で作った海賊盤には、保障なんてありません。
「中の人が変わった」と感じて絶望しても、修理には出せません。現実とかけ離れたレプリカが粉々になって、ファンを続けていけなくなったら、一番嫌です。

だから私は、みんなと同じ光くんが欲しい。
公式から配布される、限りなく本物に近い光くんがいい。
マメにアップデート・メンテナンスしてくれて、使い方が分からなくなったら誰かにすぐ質問できるような、保障された光くんのファンでいたい。

レプリカ職人を引退した私が、嘆願書を書くことはもうないでしょう。

 

バイバイ、私だけのレプリカ。
八乙女光がひかにゃんになるまで、お世話になりました。
Hey!Say!JUMPがお茶の間のみんなのものになったとき、私だけの光くんも、誰かだけの光くんも、世界のどこにももういない。

*1:薮くんが言っていた

*2:ついったーでコンサートレポをする人口、それをRTする人口が増えたから、という理由もあると思いますが。あと、これまでも雑誌というメディアの情報は潤沢にあったわけだけど、やっぱり本人の直接の声とは情報の鮮度が全然違うなと